興行寺新報 平成25年春季号
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本堂前方へ傾斜 ~耐震が必要~

興行寺が現在地に寺地を定めたのは、1563年であり、丁度450年前である。

 その前は、永平寺町諏訪間の地に綽如上人の三男、周覚上人が越前の地において、北陸教線拡張の為に下向され、その後、現在地近くの長山元屋に6千坪の寺地があり、門前町が出来、にぎわったが一向一揆で加賀の若原に50年程逃れ、その后現在地に寺地が定まった。

 歴史的に見ると、1834年(天保5年)本堂、康裡が焼失しており、その後また1913年(大正2年)に再び焼失した。

 現在の本堂が門信徒の皆さんの心からの尽力によって、荘厳な立派な木造の本堂が建てられ今日に至っている。

 この間、昭和23年、福井大地震があり、倒壊はまぬがれたが、基礎の柱などが、ぞれを生じた。その時の影響で、現在、目で分る程、柱が前方へ傾いている。専門業者に測定してもらった所、最高12センチの傾斜があり、全体では大体6センチから10センチ程である。

柱の枕したは3,4センチ程です。地盤が固いところであり、極端な枕下はないという状態です。

 今、心配されるのは地震災害であります。

 私たちの先輩の門信徒の方々が力を合わせて再建して頂いた本堂を、将来の子孫に貴重なる木造建築の本堂を継守していかねばならない。

 こころのより所としての本堂が立派に続いていくことが大切である。

 今、耐震の対策だけは急がねばならない。

 これまで、専門業者に調査、検査して全体の傾斜を修復するのがベストではあるが、まずは地震に対する対策だけはしっかりとしておかねばならない。

 

 

ブータンの「国民総幸福」論

 前号でブータンを紹介しましたが、このたび、福井市内に昨年11月にブータンミュージアムがオープンした。

 ミュージアムには福井との共通点や当地の資料約400点が展示されている。

 我が寺の「華の蔵」にも、ネパール、ミャンマー、インドと共にブータンの民族的な品が数点展示されているのでご覧いただきたい。

 この国が注目されたのは第4代国王が提唱したGNH(国民総幸福)という方針、信条、理念によってである。物質的発展の名のもとに伝統文化が失われることは悲しいことであり、このような近代化や経済発展は、さけなさればならない、そして物質的発展によって心の安らぎが損なわれることがあってはならないという固い信念であり、現5代国王でも継承される政策であり、ブータンをもっとも特徴づけるものである。

 GNH(国民総幸福)は経済発展の新しい哲学として注目された。ブータン王妃は自著、幸福対億

ブータンの中で次のように述べている。

 「きわめて分りやすくいえば、GNHの立脚点は、人間は物質的な富だけでは幸福になれず、充足感も満足感も抱けない。そして経済的発展および近代化は人々の生活の質および伝統的価値を犠牲にするものであってはならないという信念です。」

 仏教の教え理念に立脚したGNHという概念がブータンという仏教国レベルでいかに生きているか、機能しているかを示す言葉である。

 さて、ブータンは信仰心の暑い国であるが、「チベット仏教が強く生きている。皆んなの幸せを来世の往生を願うという、自分の成功とか利益は祈らない。それはチベット仏教が説く「輪廻転生」。死生観があり、心から信じているということである。

 次の世にも人間に生まれ変わりたい。だから現世では人や動物にもやさしく、事前環境を大切にする。虫や小動物を殺さない。

 人が亡くなると火葬してインドと同じように遺灰を川に流してしまう。お墓というものは作らない。葬式もにぎやかで、しんみちした所はない。

 福井県との共通点は宗教心、信仰心があるということである。

 福井県は浄土真宗が多いので、おかげさまという報恩感謝の気持ちが強く、今生かされていることに感謝。感謝のない所には心の満足感がない。心を満たされて幸せを感じることである。”お念仏と共にご本願の中に生かされていることに気付き、多くの人々が生きる喜びを感じた生活を”と願う。

法話

福ハ内、鬼ハ外                    本誓寺住職 松本梶丸先生

およそ世の中で信仰ほど本来の意義から離れ、誤解に満ちて受け止められているものはないだろう。信仰の理解はほとんどが神仏に祈り、神仏に願いをかけることであり、その願いや祈りが叶えられたことが信仰の証だと。愚かにも信仰の理解はその域を出ない。その限り、日本人ほど信仰にあふれた民族はいないかもしれない。なにしろ、日本の人口の三倍近くの神仏がいるのだから。その上に霊ということがからんでくると、信仰は尊いどころか、ぬきさしならぬ一番深い心の病となってくる。なんとこの病におかされている人の多いことだろう。

 無論、願い心や祈る心から人間は離れることができない。だが、それが人間の願いである限り、その底には必ず利己主義(自分さえ、あるいは自分の身近なものさえ幸せになればいい)と、功利主義(少しでも得をしたい、いい目に合いたい)が用いていないだろうか。

 2月3日は節分であった。全国の神社の豆まき風景がテレビで放映された。ひとつの例外もなく、自分にとって不都合なもの、死、病、災難等であろう。それは外へ出ていけというのである。このことにふれて曽我量深先生はこう言われる。

「節分に豆まきをする。”福ハ内、鬼ハ外”。みんな自分が幸せになりさえすればよいと。鬼は自分以外の人の所へ行ってくれ、福は内へ来てくれと。隣の人はまた、福は内へきてくれ、鬼は隣へ行ってくれと。これがこの世を汚すのでしょう。互いに福の取り合い、禍のなすり合いである。これみんな現世祈祷。現世祈祷はみんな禍は隣へ行け、福は内へ来い。そうしたらどうなると思います。人間は豆まきひとつとっても、わが根性が分かってくる。先祖の霊を大事にするというが、結局は自分に禍が来ないようにと。今日の信仰のほとんどは自分の幸せのみを祈る。利己主義の現世祈祷です」と。

 ユーモアに溢れているが、厳しい言葉である。願いや祈りを否定するのではない。神仏に祈り、願いをかける、その自分という存在の曖昧さ、身勝手さが見えてくることこそが信仰の課題ではないか。(中日新聞一期一会より)